先日常連さんと雑談中こんなことを聞かれました。
「店長、出身は千葉ですよね?で・・大学は大阪だったんですよね?なんで名古屋に来ることになったんですか?」
ああ・・そうだよなぁ。
普通は疑問に思われるかもしれませんよね。
特に愛知県の方はあまり他県に移り住むことないですもんね。
(そして瀬戸市に住んでさらに実感したのは、瀬戸の人はほとんど生まれて死ぬまで瀬戸で暮らすということです)
まぁひと言で言ってしまえば「転勤先として赴任したから」ということになるんですけど、実はここにもちょっとしたエピソードが存在しますので、この機会にちょっと語ってみたいと思います。
話しは1992年に遡ります。
今からちょうど25年前のことですね。
当時僕は、1年間の(地獄のようなw)高松勤務を終えて、岡山店に赴任してそろそろ3年が経過しようという頃でした。
*岡山店勤務時代です。お客さんとキャンプツーリングに行った帰りだったんじゃないかな??
岡山店は高松店に比べ、店舗の規模や売上も2〜3倍はあろうかという優良店舗でしたが、その3年間も波風なく岡山にいたのかというとそうでもなく、半年ほど臨時で浜松店(今の本店とはまた別のお店です)に勤務していたこともありました。
実はこの半年の浜松店勤務がこの話しのちょっとした鍵にもなっています。
さて。
浜松勤務から戻って半年ほど経った1992年のちょうど今頃のことでしょうか?
当時の販売課Y課長から1本の電話がありました。
「藤森クン・・急で悪いねんけどまた転勤してくれへんかなぁ?」
「え??場所はどこですか?」
「それが・・鈴鹿店やねん」
僕は「うーむ・・」と考え込みました。
転勤自体にそれほど抵抗はありません。
岡山の暮らしはそれなりに安定はしていましたけど、「そろそろ変化が欲しい」と思っていた時期でもあったのです。
当時の丸山店長(今も岡山店の店長さんです)は、全くうるさいことを言わない鷹揚な店長で好きなようにやらせてもらってはいたのですが、20代後半に差しかかろうという当時の僕としましては「もうちょっと緊張感のある環境に移りたいな」という思いも少々ありました。
したがいまして転勤話しそのものはそれなりに「渡りに船」ではあったのですが問題はその場所です。
少々補足的な説明をするのなら、当時の鈴鹿店というのは、オーナーさんがいらっしゃるフランチャイズ(FC)店でした。
しかしその経営があまり芳しくないため、オーナーさんから「店舗を本社の方で買い取って欲しい」との打診があり、そのために誰か社員を店長として派遣しなくてはならなくなったことから、その話が僕のところへ回ってきたというわけなのです。
ねぇ?どこかで聞いた話しでしょ??(笑)
まるっきり僕が高松店へ転勤した際と同じ構造の転勤話だったのです。
そして驚くべきことに、この鈴鹿店のオーナーさんというのが旧高松店の元オーナーさんでもあり、当時の鈴鹿店店長というのが、僕が赴任する前の高松店の店長だったKさんだったのです。
つまり構造だけでなく登場人物もあの時と全く一緒というわけです。
こんなことってあるんですね。
僕は正直「またこのパターンかよ・・」と思いました。
転勤話そのものは歓迎でしたけど、正直鈴鹿店への勤務はハッキリと「嫌」でした。
理由は幾つかあります。
まず第一に、「また全く知らない田舎町で、知り合いが一人もいないところであらためて一人で生活していく」ことを想像しただけで心底暗澹たる気持ちになったのです。
否が応でも高松店勤務時代の苦しさが蘇ってきてしまいます。
転勤ともなれば「知り合いが一人もいない土地で新しい暮らしを始める」ということにおいては変わりはないわけですが、やはりその土地や店舗の条件で生活様式は全く変わります。
それはもう高松店から岡山店へ転勤してみてしみじみ痛感しました。
岡山は高松に比べてやはり「都会」でしたし、何よりもお店の売上もそれなりに良かったのでお客さんの数も多く、毎日のように顔を見せてくれる常連さんも一人二人ではありませんでしたので、親しい人間関係もすぐに形成することができました。
そして周囲に商店やレジャー施設もそれなりにありましたので、日常的な気晴らしがしやすかったのも精神衛生上助かりました。
それに比べ高松店は、周囲に他に商店らしい商店もない殺伐とした郊外のバイパス沿いのお店で、毎日毎日、一人か二人のお客さんとの会話以外会話らしいものもなく、閉店後はまた店の二階で一人きりテレビを観るか本を読んで過ごすしかありませんでした。
大げさでなく「今日は佐川急便さん以外、誰とも口をきいていない」なんて日も少なくなかったのです。
よっぽどの人嫌いでなければこの環境はそう何年も耐えられるものではありません。
感覚的な表現を使わせてもらうなら、岡山店が「開けている」環境だとしましたら高松店はひたすら「閉じて」いました。
なかなか人には伝わりにくいと思うのですが、当時の僕にはこの「開けている」か「閉じている」かというのが、その生活環境を現すのに最も相応しい表現だったのです。
そして鈴鹿店はもう限りなく「閉じている」印象しかありません。
そもそも末期のFC店というのは、売上的にはもうかなり悲惨な状態です。
お客さんもほとんど来ないはずです。
相当な確率で「高松店の再現」となる可能性が大でした。
そしてもう一つは「鈴鹿店という店舗の特殊性」です。
言うまでもなく、鈴鹿店の存在価値は「鈴鹿サーキットの最寄りにある」ことがそのほとんどです。
したがいましてお客さんの層もレースユーザーがほとんどとなるわけです。
ここもネックでした。
僕はオートバイに関する趣味・嗜好の中で、レースやサーキットに関する方面への関心が最も希薄です。
分かりやすく言ってしまうと「ほとんど興味がない」のです。
興味をほとんど感じることのないジャンルのお客さんと日々接しなければならない・・・
それを想像するとまた苦痛に拍車がかかりました。
そんなわけで、「鈴鹿店への転勤の打診」というのは僕にはもう100%「嫌な感じ」しか与えませんでした。
高松店への転勤は入社したての新人の頃に命じられましたので(考えてみれば今のバイトちゃんと同じ時期です)、「断る」なんて選択肢は端からなかったわけですが、僕もその頃入社5年目だったのと、それまで何度か無理な転勤話に応じ、それなりに実績も上げていた立場でしたので、会社に対して多少は自分の意思を通すことも可能でした。
「断る」ことは難しくとも「留保」くらいは出来たのです。
「少し考えさせてください」とY課長には伝えました。
しかし鈴鹿店の本社への移譲はもうスケジュールが決まっていますのでそれほどの猶予はありません。
Y課長からは頻繁に電話がかかってきましたが、僕はその都度はぐらかせていました。
そしてある定休日のことです。
よほど切羽詰っていたのでしょう。
休日にも関わらずY課長から僕に電話があり「今日中に返事をくれ」とのことです。
言うまでもなくこの場合の「返事」というのは「行く」という返事しか想定されていません。
僕はその時美容院の予約に時間が差し迫っていましたので、「とりあえず帰ってきてからまた電話します」と逃げるように電話を切りました。
さて困った。
いよいよもう逃げられないか・・・と思った時です。
こちらからかけたのか向こうからかかってきたのかその肝心なことを忘れてしまったのですが、当時の名古屋店店長であったIさんと電話で話す機会があり、その際に僕が半分愚痴話でその鈴鹿店への転勤話を伝えたのです。
僕としては「それは大変やなぁ」くらいな感じで受け流してもらえばよかったのですが、I店長はどういうわけか、電話の向こうで黙ってしばらく考え込んでいる様子です。
しばしの沈黙のあとI店長は驚くべき提案を僕にしてきました。
「なぁ?その転勤話・・・オレに譲ってもらえやんかな?」
僕は驚きました。
話しを聞くとこういうことです。
I店長はもともと三重(四日市)の出身で、鈴鹿という街には馴染みがあり、子供の頃からサーキットを遊び場にするくらいレースにも親しんでいたこと。
ご両親がご高齢になることに伴い、そろそろ三重県に戻ることを(転職も含め)考え始めていたこと。
そんなことを僕に話してくれました。
「そんなんでな。オレ、鈴鹿店勤務となれば助かるねん、オレからY課長に直訴してみるわ。でもお前その代わり名古屋に転勤ってことになったらそれはかまへんか?」と聞いてくれます。
僕は名古屋勤務なら全く異存はありませんでした。
岡山よりも都会であり、店舗の規模も大きなものになります。
都市部の顧客層なら極端にレース偏重ってこともないでしょう。
僕が快諾するとIさんは「よっしゃ、そんじゃ今からY課長に電話してみるわ。その後お前んとこまた電話するわ」と言って電話を切りました。
そのY課長から電話があるまでそれほどの時間は要しませんでした。
会社からすれば「誰かが鈴鹿店に行ってくれればそれでOK」だったわけです。
ましてや地元の人間で、レースにも詳しく、店長としても僕よりはるかにベテランとなれば言うことはありません。
アッサリと僕とIさんとの「勤務先トレード」は交渉が成立しました。
そして同時にもう一件のトレードも同時進行しました。
それは当時の名東店の店長である青山店長(現臼杵店長)との勤務先交換です。
実は青山店長はご自宅が名古屋店にほど近く、名東店に毎日通勤するのはそれなりに時間がかかるため勤務先は名古屋店の方が望ましかったのです。
そして僕にとっても名古屋店よりも名東店の方が都合がいい点が二点程ありました。
ここで前述した「半年の浜松店勤務」とも関係してきます。
僕が浜松店に勤務していた頃、オフロード好きとして知られた当時の名東店のH店長が、池の平牧場で「クシタニクロス」というエンデューロをシリーズ戦で主催していたのです。
僕はこのレースのオフシャルとして毎回浜松から駆け付けていました。
そして同じくオフィシャルとして参加していた名東店の定連さんとも顔見知りになっていたのです。
とにかく過酷なことで知られた池の平牧場のコースでしたので、オフシャルの業務も苛烈を極め、オフィシャル同士にも一種の連帯感が生まれていました。
毎レースごと前日から泊まり込みで、お酒も酌み交わしながらの交流でしたのでその繋がりはより一層に強いものになっていたのです。
それともう一つは長久手という土地柄です。
名古屋は西へ行くほど「元々の地元の人が住んでいる」割合が高い土地になります。
それに比べ、長久手や名東区周辺は転勤族が多く、全く土地勘のない僕には逆に馴染みやすいところもあったのです。
こうして「Iさんは鈴鹿店へ」「青山さんは名古屋店へ」「僕は名東店へ」ということで、三者それぞれが100%納得するうえ、誰も困らない体制での勤務が決定したのです。
これが僕の「名東店へ勤務することになった理由」の顛末です。
なかなかに面白いエピソードでしょ?
まずもって、「社員同士で勤務先のトレード」をすることも凄いですけど「それを認めちゃう会社」も凄いですよねw
まぁ会社なんて口では「適材適所」なんて言いますけど、実際のところ「人員さえハマればOK」だったりするんですよね。
それと特筆すべきは限りなく偶然に近い、Iさんとの電話のタイミングです。
あの時、あのタイミングでIさんと電話で話すことがなければ、僕は恐らくそのまま鈴鹿店勤務になっていたはずです。
人生なんて何がキッカケでどう転ぶか分からないですよね。
でも僕は思うのですが、結局のところ「ハマるところにハマるように出来ている」のが人生であり世の中なんですよね。多分。
結果僕はこの店に勤務し、そして以前とは逆に会社から店を買い取りFC店のオーナーになったわけで、25年前には全く想像もしていなかった人生を送っています。
人生は分からないものですが、確実に言えることがあるとするならば、「人が幾つかの道のなかからひとつの道を選ぶとき、結果として必ず一番正しい道を選んでる」ってことです。
これだけは断言できることです。
そしてそれは僕もあなたも同じなのです。恐らく。
-----------------ちょっと付けたし--------------------
若い頃転勤ばかりしていた僕はつくづく思います。
転勤というのは根こそぎその人の生活・・いや人生そのものを変えてしまいます。
転勤を命じる人にはぜひそのことに対して想像力を働かせてほしいと切に願います。
あなたがTVを観てゲラゲラ笑ってる時間にも、あなたが転勤を命じた人は、家族や大切な人と別れた寂しさで眠れない夜を過ごしているかもしれないのです。
「どこへ行こうが前向きに生きていくかどうか?」ってのは、それに直面した人間が選択するべきことであって、それを命じた人が相手に強いることでは断じてありません。
若い人に転勤を命じる時、時々「いい勉強になるぞ!」とか「これはチャンスだよ!逆に羨ましいくらいだよ」とかいうオジサンがいますけどね。
僕は言いたいですよ!!声を大にして!!!
「だったらお前が行けよ!」と。
以前とは会社の体制も大きく変わりましたので、最近はクシタニでも転勤という事例は少なくなりましたが、現在針テラス店の池野店長が浜松から単身、縁もゆかりもない土地で頑張っています。
針テラス店へ行かれるお客さんは、ぜひ池野クンに(心の中でもいいのでww)エールを送ってあげてください。